« まえがきに書ききれなかったこと | トップページ | 2022年度スタート »

2021年12月16日 (木)

幕末~明治期の有名人が書き取った「蒙古語」はどこのことばなのだろうか

 まつーらさんにお誘いいただいてエントリーした「言語学な人々」アドベントカレンダー、さて私の番になりました。みなさん最近のサービスを利用されている中でなんというか古いブログサービスでのエントリーです。いろいろ利用してみたいと思う一方で、将来回収に困る…というのも頭の片隅にあってこちらに書いた次第です。9年間放置していたブログで、いろいろと恥ずかしいためどうか以前の記事は読まないでください。「読むなよ、絶対に読むなよ!」ではなく本気で恥ずかしいのでそっとしておいてください。

 アジア・アフリカ地域の言語や文化に関する共同研究を展開する謎の施設でモンゴル系の言語をおもに研究しています。とくに中国東北部に100年ほど前にロシア領から亡命したブリヤートという人々の言語の記述に従事しています。

 さて今回書いたのは「幕末~明治の偉人がじつはモンゴル語っぽい言語の母語話者から聞き取り調査をしていたんだけどそれってどこの方言だろうね」という話です。

※「蒙古語」というのは原文ママでそれ以上の意味は含まないことを予めご理解ください。

 聞き取り調査をしたのは榎本武揚。

 五稜郭で土方歳三とともに新政府軍相手に戦った人というイメージしか持っていなかったのですが、その後投獄を経て北海道開拓使になり、さらに1874年に駐露特命全権公使に任命されて翌年から3年と少し、ロシアに駐在しています(そしてそのとき千島樺太交換条約を締結。ウィキペディア調べ)。

 赴任するときはインド洋を経てヨーロッパ側からサンクト・ペテルブルグに入ります。そして、公使としての任を終えて帰国する際にシベリア調査を目的に、サンクト・ペテルブルグからウラジオストクへとシベリア横断をすることになります。1878(明治11)年の7月から10月にかけてのことです。シベリア鉄道敷設が1891年開始ということなので、それよりも前にシベリアを横断したわけです。鉄道が無い、もちろん自動車も無いわけで、使用したのはтарантас(タランタス)という半有蓋四輪馬車。私もフィールドワークをしていますが基本的に根性無しなので、これで移動するなんて無理無理無理という思いしか抱けません。

 このシベリア横断、調査目的ということもあって彼は日記をつけています。もともとは当時日本で恐れられていたロシアの実情を明らかにして「恐露病 (*1)」(加茂1960: 242)を解消することが調査の目的で、地勢・地質・産業・鉱業・砂金・軍事・政治・経済・習俗などのほかその日の天気・気温といったことを事細かにつけています(*2)。彼の死後、南満州鉄道株式会社(満鉄ですね)より刊行された『シベリヤ日記』はデジタル化されて見ることができます。東京外大図書館にもあります。

 ウラジオストクに向かって進むとなると、その途中にはいわゆる先住民族のいるエリアがいろいろあります。そういった人々の習俗についても日記に書き残しており、言語についても興味深い描写がいろいろと書かれています。

 たとえば8月19日。シベリア西部の都市トムスクを発ってクラスノヤルスクに着いた翌日の覚書には次のような記述があります。

 「ヤクートは数はトルコを用ひ、語は蒙古とタタル語を交へり」(加茂1969: 143)

 これはヤクーチア(いまでいうサハ共和国)を旅したこともあるポリシーメーストル(=警視監(諏訪部・中村2010: 27);榎本は「下奉行」(加茂1969: 141)としているところもおもしろい)が榎本のところにやってきて歓談した際に得た情報のようです。「ヤクート語(サハ語)は数詞はチュルク系の語彙を使っていて、(その他の)語彙はモンゴル語とタタール語が混じっている」と。私も研究史をきちんと追えているわけではないのですが、少なくともサハ語の特徴について日本語で書き記したものとしては最初期にあたるものではないでしょうか(*3)

 9月9日には「本日ツングーツ人(トウングウス族)を見る。ブリヤトよりも美なるに似たり。只水草を逐ふと云(ふ)」(加茂 1969: 184)とありますし、9月10日にはチタの鎮台でかつてブラゴウェヂンスクの奉行であったペドシエンコという役人とあった際の記録を次のように書いています。

 「ツングーズの魯村に住む者は今皆魯種と混化して言語も其根源を知るを得ず。アムールに住むオロチヨン、マネーグル等は察するに同種なるべし。又云く、ヤクートはホンガリヤのマクチルと共にフヒンスクの人種にして歴々証すべしと。然らば即ち漢時の所謂匈奴なる者は一は現下ホンガリヤに遷り、一はヤクーツク県に止まりしなり。奉行附添の一士官云く、曾て水草を逐ふツングーヅとブリヤトと相語らしめしに更に相通ぜざりしと」(加茂1969: 185-186)

 ここでツングーツ~ツングーズ~ツングーヅとしているのはおそらくいわゆるツングース諸語のひとつエヴェンキ語を話す人々。ロシア人士官がかつてエヴェンキ語とブリヤート語で会話させたけど通じなかったこと、ヤクート(サハ)はハンガリーのマジャールとともにフィン人であるという見解などを記しています。ほうらアルタイ諸言語に興味のある方にとってはいろいろとそそられる記述があるでしょう?

 さて榎本武揚のシベリア横断、トムスクからクラスノヤルスクを経たのちにイルクーツクに到着します(8月28日)。このあたりはモンゴル高原の北端にあたり、モンゴルの影響がいろいろとある地域です。地名ももともとはモンゴル語地名のЭрхүү (Erkhüü er+khüü; 男+息子) が由来です。このあたりでブリヤツク(ブリヤクとも)という人々についての記述がそこかしこに出てきます。ブリヤツク(ブリヤク)というのはモンゴル諸語のひとつ、ブリヤート語を話すブリヤートのこと(*4)。8月30日までイルクーツクに滞在したのち、バイカル湖を船で渡り、南進して9月1日に大清帝国国境付近(=いまのモンゴル国とロシアとの国境付近)のキャフタに到着、そこからウェルフネウディンスク(現在のブリヤート共和国首府ウラン・ウデ)、チタと東進していきます。この8月下旬から9月上旬にかけて、かれらの生活形態だけでなくモンゴル語やブリヤート語に関してもいろいろと記録しています。

9月1日

  • 「ブリヤクと蒙古は言語稍相通ずと雖も同音にあらずと云ふ」(加茂1969: 164)
  • 「ブリヤクの村落処々にあり。魯人の家と同じく丸木小屋なり」(同上)
  • (茶商に尋ねた記録)「予、ブリャク人と蒙古人との差あるや否を問ふに、彼云く、人種、言語、教門共に一なり。只ブリヤク人は魯領にありて相隔たりしにより、言語になまりを生ぜしと雖も、大同小異にして相通ずと」(加茂1969: 166)

 

9月2日

  • 「途中見る者は支那人、蒙古人、ブリヤ人等なり。何れも大抵同人種にして分ち難しと雖も、ブリヤクは魯領の民なるを以て、少しく異なれり。譬へば弁髪せずして短き総髪の者多し。蒙古人は支那人と頭髪顔色共に同じきを以て、殊に分ちがたし。只言語全く異なれり。蒙古とブリヤクは同言語なり」(加茂1969: 168)

 

9月3日

  • (キャフタでモンゴル人の暮らすゲルに入って通訳を介してインタビュー)「予、カザクの下等士官を通事として蒙古の言語を問ふに、ブリヤクと少しも異るなし」
  • (モンゴル人僧侶と会って会話)「ブリヤクも蒙古も更に別なし、支那にある者を蒙古と云ふ、魯領にある者をブリヤクと云ふのみ、言語も人種も全く一なりと。此人、蒙古人種の今、魯支二国に并せられ、今日の姿になりたるを歎ぜり」

 繰り返し書いているのは「モンゴル語とブリヤート語は(ほぼ)一緒だよ」ということです。これは少なくとも言語特徴を比べるとブリヤート語はモンゴル語と大きく異なってはいないといういまの見解とおおよそ重なります。この違い、榎本には気になったようで、他の言語についてこれだけ重ねて書いている箇所は見られません。

 そして他言語と何よりも大きく違うのは、語彙や文例を記録していることです。9月5日の覚書にそれがまとめられています。9月5日はウェルフネウディンスク、現在のウラン・ウデを通過した日にあたります。

以下引用(加茂1969: 179-180より)。表の3列目は私が調査しているブリヤート語の一方言(シネヘン・ブリヤート語。概要はこちら)、4列目はいまのモンゴル国で話されるモンゴル語ハルハ方言です。3列目で一部(n)となっているのは、主格形では末尾にnがあらわれる語を指しています。

----

 ブリヤクと蒙古は言語も人種も全く一なり。ブリヤクはセレゲンスク(注:セレンギンスク)辺よりキヤクタ(注:キャフタ)辺迄は蒙古語に異らず其他は多少なまりありて、相通じがたきことあるに至ると云。ブリヤクと書きしは非にしてブーリヤトなり。

蒙古語   シネヘン・ブリヤート語 モンゴル語ハルハ方言
何ト唱ルヤ ヤモルネレテイ jamar nere-tei jamar ner-tei
此河 イネイ ヲホン (「この水」の意で)ene oha(n) (同右)en os
此山 イネイ ハダ ene xada ~ ene oola en ooɬ
ゼレウニク(露語)(< Rus. деревенька か) brigada (< Rus. brigada) tɔsɡɔn
汝幾歳ナルヤ タンデフデイナフタイ taa xeden naha-tai=b=ta. taa xeden nas-tai
十分ナリ サダア sad-aa=b. ~ sad-aa. tsad-san.
今一次 バレキテイ ?bajar-tai(別れの挨拶) ?bajar-tai
ウドルイジエニ erte ɵɡɬɵɵ
ウドシエー udeše udeš
天気(←良い天気、か) ハイヒン haixan saixan
帽ヲ冠セヨ マラハイムデ malagai umde. maɬgai ɵms.
ゾニ ?ɔn もしくはzon(夏?) ?ɔn ?zon
サラ hara(n) sar
ウヅル uder ɵdɵr
サク sag tsag
サイ sai tsai
東道主人 ハヂヤン (< Rus. хозяин か)*5    
汝ノ子カ タナイフブン tanai xubuun tanai xuu
同 娘カ タナイバツアグン tanai basgan tanai ɔxin
甚可愛 シグイ ドルタイ aša-gui dor-tai aš-gui dor-tai
今日 ムヌーウドル munɵɵder ɵnɵɵdɵr
明日 ウグーロ uglɵɵ margaaš
昨日 ウスグードル usegelder ɵčigdɵr
ハルンヲホ xaloon uha(n) xaɬoon os
パン talg xilyeem (< Rus. xleb) taɬx
ミヤハ(露語) m'axa(n) max
ザガグン zagaha(n) zagas
語ナシ sagaan bodaa tsagaan bodaa
bii bii
taa taa
コノ人 イネフン ene xun ene xun

----

 上述したように数日前に滞在したキャフタはバイカル湖南部にあり、このあたりに暮らすブリヤートの人々の言語はかなりモンゴル語に近いとされます。シネヘン・ブリヤート語はもともとはもっと東部のほうに故地があり、こちらは現在のウラン・ウデあたりの方言とほぼ同じ。こう並べてみると実際に、モンゴル語ハルハ方言よりもはるかにシネヘン・ブリヤート語の語形に近いといえます。

 モンゴル語ハルハ方言(以下、モ)とシネヘン・ブリヤート語(を含むブリヤート語東部方言、以下、ブ東)とバイカル湖南部のブリヤート語方言(以下、ブ南)を比較すると、ざっくり次のような対応が見られます。

  1. モンゴル語文語の音節頭s音はモ&ブ南ではs、ブ東ではh
  2. モンゴル語文語の音節末s音はモではs、ブ東&ブ南ではd
  3. ブ東では第一音節の口蓋化子音が顕著だが、モ&ブ南ではその口蓋化が起こっていない
  4. モ&ブ南の破擦音はブ東では摩擦音(ブ東の固有語には破擦音が無い)

 本当は細かく見ていくともう少しいろいろあるのですが、まずはこの1. に注目します。

 「水」に関連した語はきれいにブリヤート語の特徴であるh音が出ています(「此河」(イネイ ヲホン)、「湯」(ハルンヲホ))。「汝幾歳ナルヤ」(タンデフデイナフタイ)「天気」(ハイヒン)もそう。「魚」はグと表記されているけれどもこれはモではありえないことで、やはりブ東に近い。ただし「月」がモ&ブ南の形になっています。

 続いて2. を見るとブ東&ブ南に近い。「帽ヲ冠セヨ」がそれです。

 そうすると、ブ東っぽいけどブ南っぽくもあり、少なくともモではないなという感じです。

 でもって3. を見てみましょう。これは「肉」を見るのがよいでしょう。(露語)と書いてありますが、これはロシア語ではないでしょう(Rus. мясоにあたると考えたのだと思います)。*miqa(n) という祖形になりますが、この第一音節mi音が、モやブ南では完全逆行同化によってmaになっています。一方ブ東は逆行同化がそれほど甚だしくなくてm’a [mʲa] となっています。このミヤハというのはまさにこの特徴をカナで書き留めた例ということになります。だいぶブ東っぽさが強まります(*6)

 じゃあやっぱりブ東の人だろうかということになってきます。ただ気になるのは4. です。

 これは「十分ナリ」「昨日」あたりが対応していてブ東の特徴がよく出ています。ところが、「同 娘カ(汝ノ娘カ)」を見ると「バツアグン」となっています。この語自体はハルハ方言では耳にすることはまず無いですがモにもあって、batsgan「年頃の娘」(小沢1994: 56)と辞書にも立項されています。とすると、この語に関してはモ&ブ南に近いということになります。

 ブ東は破擦音はほぼ完全に失われています。そのためここは「バツアグン」ではなく「バサガン」とか「バサグン」になっていてほしいところなのですが、これを「ツア」と書いているということは榎本の耳には明らかに破擦音だと聞こえたと考えてよいでしょう。ちなみにもし私がカナ書きせよと言われたら「バスガン」と書きます。

 というわけで、非常にブリヤート語東部方言の可能性は高いのですが、ちょっと違うなーというのが結論となります。このちょっと違う点をどう解釈するのがよいのか悩みますが、考えられるのは「いちおうウェルフネウディンスクで当地の方言話者から聞いたものを書き取ったが、一部、それまでの滞在中で聞いた覚えのある語もついでにメモした」のかな?と考えています。数日前まで滞在していたキャフタ付近であれば、ブ南は破擦音を保持しているので、月は「サラ」、娘は「バツアグン」に近い音になるためです。

 もっと多くの用例があるとうれしいのですが、いまわかるのはこんなところでしょうか。おそらくこの榎本が書き取ったブリヤート語の単語や文というのは、(きちんと史料を精査していないので軽々しくは言えませんが)日本人によるものとしては最も古いデータなのではないかなと思います。ペリーの黒船からわずか四半世紀後に海外でこういう言語調査が行われていたというのはちょっと興奮します。ただまあ論文にするほどのネタでもなく、検証もなかなか難しいので今回ここに書いてみました。お楽しみいただければ幸いです。

 ところで……次のような記述も確認されます。

「九時、セレンガ河畔の渡場に出づ。渡守はブリヤツク人なり。景色も(また)好きを以て、ブリヤツクの小屋、婦人、小児等及び渡場の写真を取る」(加茂 1969: 164)

 写真撮ってるんですよ! 見たい。すごく見たい(*7)(*8)

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。年明けの言語学フェス2022でもう一度この話をしようかなと思います。

 


*1.  「おそロシア」ですね。(本文に戻る)

*2. コンパクトにわかりやすく紹介したものに醍醐 (2012) があります。この展示、見たかった(泣)。(本文に戻る)

*3. サハ人についての記述としてはこれよりも古く1794(寛政6)年に成立した『北槎聞略』にあります。1782年に遭難してロシアに漂着し、エカテリーナ二世に謁見し帰国した大黒屋光太夫から桂川甫周が聞き取りし、まとめたものです。光太夫はヤクーツクにも行っているのでさもありなんですが、彼はロシア語の語彙や例文を大量に記録している一方でその他の言語についてはほとんど記述がありません。しかし『北槎聞略』はシベリア少数民族の多くを網羅的に記録しているなど、これもまた貴重な記録には違いありません。(本文に戻る)

*4. しばらくブリヤクとかブリヤツクとかちょっと誤って書いていて、9月5日の日記の覚書で「ブリヤクと書きしは非にしてブーリヤトなり」(加茂1969: 179)と訂正しています。「ブーリヤト」があっているのかというとこれまた微妙ですが、これより後には「ブリヤト」と自称に近い語形で記録しています。(本文に戻る)

*5. モンゴル語やブリヤート語のezenも近い気がしますが、「予が訪ひし魯人の家、太抵皆ブリヤクの男女を以て僕婢とせり」(加茂 1969: 168) とあったりするので、主人を呼ぶときはロシア語で呼びかけることを考えるとやはりロシア語でしょう。(本文に戻る)

*6. たとえば諏訪部・中村 (2010: 175) は注記で「この中には「村 ゼレウニク」「東道主人 ハジャン」などのようにロシア語に近い形をもつものもあるが、その他は概してモンゴル語、とりわけブリヤ―チアで用いられているモンゴル語の形を反映しているらしい」としており、ブリヤ―チア(=ブリヤート共和国。ブ東をもとに正書法が制定されている)に近いことを指摘しています。「らしい」とあるのは編注者である諏訪部・中村両氏の見解ではなく、「ブリヤート語とその古文字については田中克彦氏と中見立夫氏」(諏訪部・中村 2010: 316) とあるので田中氏の見解でしょう。(本文に戻る)

*7. 加茂 (1960) にこの日記の経緯について記されています。「世界史的な意義をもった榎本のシベリヤ旅行もその日記も、一般の日本人にとっては長い間知られていなかった」(加茂 1960: 257)、「榎本がこの『シベリヤ日記』を帰朝後ついに発表する機会を持たないまま明治四十一年に死去した」「彼の在世中においてすら彼が『シベリヤ日記』を書いたことはほとんど知られることがなかった」「彼の死後十六年を経ただ大正十三年の関東大震災のとき、彼が澄んでいた住宅が潰れ、家人がその整理をしていたさいこの日記手帳が偶然彼の書類入れのなかから発見された」「この手帳が発見された後も家人は黙ってしまっていて、榎本の意志を尊重して発表しなかった」(以上すべて、加茂 1960: 258)。こう考えるとこのとき撮った写真というのもおそらく現存しないのでしょう。満鉄版にはエヴェンキ(トゥングース)、ナーナイ(ゴリド)、ニヴフ(ギリヤーク)の写真もありますが、ニヴフの写真に「参考写真」と書いてあるので本人撮影ではないのでしょう。残念。(本文に戻る)

*8. ついでに興味深い記述を。ブリヤートの寺院を訪ねて僧正と面会する記録が9月4日にあります。そこに「大僧正云く、曾て一人のブリヤク日本へ航せしことあり。此の鏡を持ち帰れりとて日本の鏡を示せり」(加茂 1969: 177) という記述が。いろいろ調べないとたしかなことは言えないけれど、この日本に行った人って日本に渡航した最初のブリヤート人じゃないですかね、もしかすると。一方、ブリヤートに出会った最初の日本人は誰かというとよくわからないのですが、あの大黒屋光太夫は1789年にイルクーツクに滞在し、同行の新蔵、庄蔵という二人がそこで日本語教師として残ったこと、光太夫来訪時にすでに同じように漂流してイルクーツクにわたり日本語を教えていた者が数名いたという記録もあるため(桂川 1990: 478)、榎本の来訪よりも100年以上前である可能性が高いです。ただし日本語を教える対象はおそらくロシア人だったことをふまえると、交流や調査といったことはほとんどなされていなかったものと推測されます。(本文に戻る)

※不明のロシア語単語についてイ・ヒリギさんにご教示賜りました。末尾ながら御礼申し上げます。

参考文献

  • 榎本武揚. 1939. 『シベリヤ日記』大連: 南満州鉄道株式会社総裁室弘報課.
  • 小沢重男編著. 1994. 『現代モンゴル語辞典』東京: 大学書林.
  • 桂川甫周. (亀井高孝校訂) 1990. 『北槎聞略:大黒屋光太夫ロシア漂流記』東京: 岩波書店.
  • 加茂儀一. 1960. 『榎本武揚:明治日本の隠れたる礎石』東京: 中央公論社.
  • 加茂儀一. 1969. 『資料・榎本武揚』東京: 新人物往来社.
  • 諏訪部陽子・中村喜和. 2010. 『現代語訳 榎本武揚 シベリア日記』東京: 平凡社.
  • 醍醐龍馬. 2012. 「名古屋大学博物館特別講演報告 榎本武揚が見た露清関係とモンゴル ―『シベリア日記』を中心にして」『名古屋大学博物館報告』28: 213-219.

| |

« まえがきに書ききれなかったこと | トップページ | 2022年度スタート »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« まえがきに書ききれなかったこと | トップページ | 2022年度スタート »